マッカートニ−「RAM」

いかんともしがたい、こんな私でも
「この音楽は自分の存在証明である」
つまり
「この音楽に惹かれる実存、それこそが自分の
音楽強度であり、それが評価される世界こそが
自分の音楽表現の裏付け」
と、もっと分かりやすくかけば
「このアルバムが傑作と評価される世界が存在している
事を(これこそ後に)知る事で自身の音楽的判断そのものが
裏打ちされて表現する理由になっている」

てな、感じで
今回の文章はまる分かりで
「自分語り」に等しいわけですが
これは御容赦ください。



マッカートニ−のアルバム「RAM」が
デラックスエディションでの発売が決定したのです。




このアルバムを最初に聞いたのは
おそらく70年代後半、
その発売が70年代初頭であるので
つまり10年近く後、自分が高校生の頃だったと思います。
当時は小遣いの中から
中古レコード屋で「まだ聞いていないマッカートニ−のソロを
聞く行為」がたまらない「自分の連続的な趣味」であり、
で、それは「1人でやっている事」であり、
それが「自分の未来」であるという、まあ、単純な将来を
夢見る高校生のやる事であり、
水道橋博士さんがビートたけしのラジオを聞いて
「これが自分の未来だ!」と思うような、
(僕のたけしは好きだったので「これは最高でかつすげ〜」
と思ってましたが「自分の未来である」とは思いませんでした)
つまり自己同一視していたわけですが、
で、当然自己同一視するには理由がありまして
「自分が持っていない実存と肉体性をすべて獲得している
ように見える。なおかつ、それが支持されている」
と、学生時代の己が欲望するレベルの「希望」
が70年代後期のマッカートニーに見えた、と。

まあ、この辺りは「アイドル論」と同義であるのは
間違いなく、私、マッカートニ−の似顔絵を
当時から教科書に書いていたりしてわけですが、、
さて、
この先は「高校生時代、そして過去、今に至る、
自分が欲しい実存性への言及」になるので
それは呑み屋で話すとして、
さて、そんな「自分の理想」であったポール君、
当時といえば70年代後半といえば
実は前期と比較して「やや活動に陰りが見えた時期」
でもありまして、
私がリアルタイムで発売に追い付いた作品が
79年の「BACK TO THE EGG」でございまして、
このアルバム今でも好きといえば言えなくもないですが
当時思ったのは「目玉焼きか、、つまり、、」
というジャケット含めた感想でありまして、
というか、タイトルとジャケットのだささは
高校生的にきついわけでして、。
なおかつ「基本に戻れ!と言われても
あんたの音楽が基本である自分にとっては
親に(親と思うな!)と言われるようで、
つまり困る」とそんな気配を言語化出来ずとも
今でもそう思っておりまして、
まあ後ほど「あれはパンクへのアンサーだったのだな。」
ともきづくわけですが、
そこがポールの面白さ、と後ほど理解するわけですが
基本ポールは元々「自分の外に存在理由を探すタイプ」
でありますので、ああいった行動に出るわけですが
実は「自分の外に存在理由がある」と思ってしまう
そのタイミングというのが
ポールのウイークポイントでもあるという、。

この話し、自分で興味深いので続けますが、、
まずポールの自我はジョンレノンによって設定されている、。
これが基本です。
(説明は長くなるのではぶきます)
ジョンにより設定された
「最強の自分」である段階では
「存在理由を問う必要がない」のですが
何かの理由によって
(つまりパンクの存在だったりジョンの死だったり老化だったり)
で「存在理由を探す必要がある時期」になりますと
強力なジョンによって
「存在理由を探す理由を封印されていた自分」
に陰りが出始めて、、
で、実はネタ探しとしての他者の音楽ではなく、
つまり「主体はあくまでも自分でありネタはネタとして
理由する段階」ではなく
「主体が自分以外の存在であり、自分の音楽がそのカウンター
となってしまう、主客逆転構造になる」
これがね、ポールの最大の弱点でもあるという、。
他者を存在理由に利用しようとして
その他者が前提となってしまう矛盾、、。
(よくある話しですが)。

ビートルズである我」
「ジョンの相棒である我」
これほど最強の「音楽的存在理由」は
今ではないと思うのですが
70年代後半以降ですね、
ビートルズははっきりと「アウト」であったのです。
ビートルズであったがゆえに
ジョンにそれを保障されていたがゆえに
存在理由を探す必要がなかった他者にぶちあたった時期、
それが70年代後半のポールであり、
話しが長いですが、その時期が自分がポールの好きになり
過去作に振り返る時期でもあった、、と。

つまり、好きになった時にポール自身はすでにやや
ノスタルジーの対象であった、これがね、
手塚治虫とやや同じ対象でね、
「好きになった時点でその表現者は存在しているが
その表現の輝きは過去にあったように見える」、
それがね、そういう表現を追求すること、
その行為がね、高校生ぐらいの思春期のニンゲンにとっての
「自分を時間スケールで相対化してみる」
その第一歩でもあるという、。

「オレが好きで惹かれまくるこの表現者
今この表現ではなく、過去に栄光がある、らしいぞ、。
つまり今見ているこれはなんだ?、これでも最高なのに、
これ以上のモノがあるのが世界なのか?」
とそういうね、。

つまり
「活動歴と評価軸が長い表現者は、それを受け取る側、
どの段階から入るにしても、受け取る側にとって
自身を知る事になる」という、。
手塚がそうですしね、ビートルズもそうです。
それを好きになる21世紀のファンは
背景のタイムスケールまで手にいれて、
なおかつそこに自分の未来、つまり自我の延長を見るわけです。

あ、話しずれてます、が、、
そんな「他者を必要とするが他者の設定をビートルズとジョンによって免除されていたポール」が
「限りなく自分のために、限りなく他者のために」
という拮抗する狭間で生み出されたアルバム、
それが
「ラム」なんですね。
さあ〜、話しは長〜いぞ。
「リンダは他者ではあるがほぼ自分である」
「もうジョンは相棒ではない。」
ビートルズの栄光はまだまだまだある」
「ファースト.マッカートニ−は取り合えず自分のために作った」
「今回は他者を想定してみる」
「で、自身の音楽的限界能力を相対化してみよう」
「一度、自分だけで能力の限界を探ってみよう」
「他者のような自分のようなリンダがいてくれればやれるぞ」


「つまり、必要なのはポールマッカートニ−という他者だ」

と、ポール自身が設定した唯一のアルバムなんです。
「RAM」
外に音楽的欲望があるわけでもなく
ジョンに保障されているわけでもなく
孤独でもなく
ビートルズでもなく
ただただ
「何か出来るはずだ、今の音楽的スキルがあれば、、」
という挑戦した事がない状態。

「ポールがポールマッカートニ−という肉体を
利用して音楽的限界を追求したアルバム」

「初めてやってみる。自分の中にある音楽と
そこから仮定する他者のための音楽」

そして、結果は、、、、。

人それぞれですね、。
が、今ではオールタイムベストポール、と呼ばれる事が
多いアルバムではあるのは間違いなく。

この屈折とそれにまつわる時間スケールの乖離、
それがマッカートニ−ファンがいる楽しみであり、
かつ「落とし穴」であるのです。

つまり「魅力的物件すぎてファンがそれを相対化する必要がない」
状態ですからね、。

いやはや「ポールの実存に憧れ」
が、「前提として当たり前ですがそれは断念している」
からこそ、今だ、自分は音楽を作っているのです。
「ラム」に関しては、また引き続き。