大変

だなあ、生き続けるのは、。
それが元々の自然の摂理とはいえね。
(ちなみに自分が追い詰められているわけではない)

希望と諦めの境目ってどうなんだろうかしらね。
世間に流通する物語は「諦めるな!」ですが
それが結果が出ない時の物語をもっと流通させた方が
いいのでは?と実際には思う事多いね。
諦めるな!は相手が何歳まで有効か?とかさ、


後ね、これ書いちゃお終いですけど、
物語という体を成すためには
主体と客体が必要ですので
(その客体が犬であったりしてもね)
その関係性が希薄になった所へ届ける言葉を探す、
それって物語以前の話しですからね、。
つまりね、それはもう表現やら創作やらで
解決不可能なんですな。
それが解決可能な範囲は
そこにまだ「他者の可能性がある場合」のみです。

そこから先の生きる可能性は
構造的な問題にならざるを得ないのですね。
属する組織構造と社会構造の設定。
共同体の設定。
人間の社会は総べて人為的システムですのでね。
どうにでもなるのです。

だからこそ
北極で暮らすイヌイット家族の風景(NHKで放送していた番組)
輝かやしいようにしか見えないのですね。
あれGDPとか関係あるか?あの子供の笑顔。
「笑顔」という状態に必要なのは数値化された経済指針が
支配する社会ではなく「充足された自我の延長である、
家族やもしくは他者というシステム」であるのは、自明なんですな。
そこから孤立すると物語を消失して世間からも記号的に消失
してしまう人、、。

そこの物語りをどう構造に結び付けられるか?が
以前から考えていて、そして最近よりシリアスになった
話しですねえ、。
自分は置いておいても。