コクリコ坂から。

ジブリの「コクリコ坂から」を観た。
宮崎駿の息子である吾朗氏第2作目。

映画の主人公が感情を爆発させる瞬間をアニメーション技術と運動共に一気に開放する、それが宮崎アニメの大きな魅力、
そして、宮崎駿自身が求める映画への欲望だと
思うのですが(少女が波を上を駆け抜けて大好きな男の子を
追いかけて来るんだ!海は嵐だ!それだ!、みたいな、、)
吾朗氏はもしかしたら、耐える事、現実と理想は違う、
感情はなるべく抑制して表に出さない事、
でも理想は追いかけて進む、という描写に惹かれているのか?
と。
主人公の女性の抑えている心情をかなり緻密に描写して
おりましたし、監督の視線がそこは熱いと。

例えば、駿作品のトトロ。
主人公サツキ(メイのお姉さん)
が抑えて抑えて、逆に最後に井戸で泣いてしまう描写が
魅力的だった、
コクリコ坂でも主人公が泣いてしまう描写はあるんですけど
(脚本は駿ですしね、原案も)
そこの感情爆発させる描写よりも、距離がある二人、
言い出せない二人、視線が交差しない二人、
などの瞬間に魅力ある描写が多く記憶に残ります、。

いや、これを独善的な父と息子、
宮崎家の関係そのものだ!
と言いたいわけで、、ありますが、、
そこも含めて、吾朗氏のアニメーションへの欲望が
果たしてそれに向いているのか?という疑問がありつつ、、。

これ、書いちゃお終いですけど
「動かしたいという欲望ありき」がアニメーションの動機だと
思うんですよね、。

その「動かしたい」が小さな心情を描写する事を否定したいわけも
なく、それがそれで当然技術的にも欲望的にもあり、だと
思う訳ですけど、(そしてコクリコではある程度成功していると)
それは役者を使った実写向きなのではないか?と。

今回は
現実的にまだオヤジの元でこの作品が成立している、
がオヤジは否定したいと思っている、という
アンビバレンスな現実が作品に微妙な力として
肯定的に作用している節があるんですけど、
その力だけを推進力にアニメーション作りという欲望を
持続させる事が果たして出来るのか?と。

「とにかく動かしたい、そのためには死んでもいい」
くらいの欲望が前提としてないとアニメーション作りという
過酷な現場を続けられないのでは?と。
「なぜ、動かしたいのか?」には理由はなく、
個人の属性としての欲望がないと、、、、。

今回もジブリというアニメ制作会社が
宮崎駿個人の尋常ではない欲望によって
設定されている作品群なのだという本質がまたもや
見えてしまった、という、、これは、一体、、、、。

いや、僕はもう十分以上宮崎監督から素晴らしき作品を
見せて頂いたので何も不満はございません。

そしてやはりそれは特異で特殊な個人の賜物であって、
誰にも継承出来ない、天才の様を集団的に維持するという事
自体が無理な作業では、、と思ったり、、。
(いや、それの可能性があるとしたら
完全なる分業制を認めるか?否かだと実は思ってますが。
原案を出す天才、脚本の天才、絵コンテの天才、
企画を出す天才、アニメ−ションの天才、
すべて分業で、統率者がまた天才であらば可能だと、。)

そういう意味でもジブリだけはやはり永遠に特殊な場なんだ、と。
宮崎駿が何もかもやってしまう前提であるという、、。

商品性がある優れたアニメ−ションという枠組み内の発想とは
また別ですからね、。

観る側もジブリ作品だけは「宮崎映画」と認識しているのも
正にその通りの事実で、、。

黒澤プロが黒澤亡き後も黒澤映画のクオリティを維持し続け、
今に至るような、手塚プロが、、手塚なき後も、、、、
と、もはやファンタジーの領域、で。
天才ありきだった状況を企業として集団として機能させようとしても無理なのはやはり、、自明なのか、、な、
寂しいですが、、。

ただ、背景技術などなど、ジブリの素晴らしい工芸的な
蓄積は素晴らしいと今回も思いました、、。
それは今後継承可能な制作技術であろう、とも、。

いや、、でも、先ほどの件ではないですけど、
分業制させ認められたら、ともやはり思いますね、、。


余談ですけど、
ジブリは今後、是非、企画として
全国の映画館で春夏興業で
ジブリ映画祭り」を定期的にやって欲しい、と。
トトロやナウシカには毎年映画館で子供は初めて出会うべき、
だと強く思いますので、、。