映画「スーパーローカルヒーロー」を観て。


         http://superlocalhero.com  
                          ミヤザキタカシ
                     
  
  ちらちらと音楽仲間から尾道にある興味深いCDショップ「れいこう堂」
 の話は聞いていて。
 この映画で初めてそのお店とそこを経営する信恵勝彦氏の活動や生活を拝見し、 
 ほ〜んとに色々な事を思ったり、実感したり。
 
 電車内で立っている人に座席を譲るような社会的マナーから、
 ニュースなどで時々耳にする「線路の落ちた人を助けようとして亡くなってしまう方」
 の話まで、。
 日々思う事として、そういう「利他的である態度」ってどういう事なんだろう、。
 必要なの?誰から教わるの?道徳の知識としてではなくって、何?って。

 映画で見ている信恵さんは徹底的に利他的な存在、に少なくとも僕には見える。
 氏の実存がどこにあるのか?過去に何があって氏にそうさせているのか?
 そこまでは分からないけれど伝わるのは
 「利他的な個人が共同体や社会には必要なんだな」という気配で。
 なぜなら、そこには「楽しそうな人達」が映っているから。
 
 でも、やはり、利他的であるからこそ、
 そこには隙もあらばヘマもあらば突っ込まれる要素は満載で、
 正直、「色々な立場の人に色々な事を言われるのだろうな〜」とは思いつつ。
 イデオロギー視線で、経済的な側面から。
 
 この映画や氏に限らず、善意で溢れていても感情や論理が
 SNS上などで錯綜してしまっている現在、思う。
 この映画も氏も色々な視線にさらされるのだろうなって。
 そして「ああ、またか」って。
 「また」なんですよね、いつでも。
 善意由来の利他的態度や個人が誹謗されてその可能性が閉じてしまう。
 そして「分かる人達だけに伝わればいい」って世界になってしまって、。
 それでもいいんだ、と思いつつ、関係がない人達からは遠ざけられ、。

 この映画では「音楽」が外部と繋がっているので(そしてその音楽自体はやはり
 どうあっても音楽的に素晴らしい)、他者性は担保されているとは思いつつ、、。
 
  色々と今後は「言葉や論」で繋がらなければな〜と、改めて思いました、。
 そこにあるのが善意で、人との暖かい繋がりで(まあ、愛、、とかも)
 であるのは自明としても、だからこそ、新しい言葉が必要だろうなあ、と。
 
 
 信恵氏やれいこう堂みたいな「徹底的な利他的な存在」の重要性は
 その一点だけではなくって次に現れる利他的な存在への可能性なんだろうな、と。
 「ここでこの場所と個人を言葉で次に繋げないと将来への可能性も
  また閉じたままになってしまう」と、やはり思ってしまうので。
 その繰り返しを僕自身は見てきたので。
 
 将来の日本に原発があるかどうか、だけではなく(当然、それは重要ですけど
 それだけじゃありませんから、未来の負の可能性は)、
 「そこに利他的な個人が生まれる可能性があるかどうか?」
 これが僕の考える社会の最後の可能性だと理解しております。
 利他的な個人が生きて行けない社会は例え原発がなくなっても
 他の理由が潰れるでしょう。
 (誤解されそうですが、僕自身は反対ですよ、原発の日本での活用に)。
 
 99%の人が利他的でも利己的でもある、そのバランスの中に生きていて。
 だからこそ「愚直にも利他的であろうとする意思」を実践する人がいてこそ 
 「利他的であるとは」という光景をそこに人は見るわけです。
 
 この映画を観て、以前から思っていた事をあらためて色々と考えさせられました。
 僕は信恵氏とお会いした事はありませんが(映画内で自分が参加しているバンドのCDが
 チラッと映って少々嬉しかったですが)伝わる事はおそらく映画内の方々と同じで。
 「こういう人がいてこそ生まれる楽しい時間はあるんだよね」という実感です。
 
 素敵な映画をありがとうございました。
 応援します。
 
 
 p.s 蛇足ですが、、。信恵氏自身が、そして信恵氏を私的にも愛する連れがいればな〜、
  もうちょっと色々と上手く回る気がしないでもない、と、、ちょっと思ったりしました。
  
  そして、当初は利他的でありすぎる存在が事態の推移で最悪な利己的存在になる、
  独裁者とはそういう存在だと僕は理解してますので、「利他的である事」を
  目的化する行為にも当然リスクはあります。それも含めての理でございます。
 
                  文責 ミヤザキタカシ
                  音楽を作ったりもしております。
               バンド「図書館」「グレンスミス」に参加中。