難しい。

まだ本人には会っていないのですが
[青春ゾンビ]というタイトルのブログを見始めたのは
1年ほど前だったろうか?、。

確か、最初に己の関係の音楽についての記述を見つけ
コメントなどを書いた記憶があるのですが
そのブログ主が(おそらく)若いのに
カルチャー、音楽、映画への視線が本質を見ている事に
驚いて(いや、別においらの関連の音楽が本質とは遠いとしても)、
毎日覗くのが楽しみなブログになっている、。

http://d.hatena.ne.jp/hiko1985/20110710/p2

「若い人の基準がここにあるとしたら文化の背景は
良き方向へ向かうな」とそういう希望を見ている、というか、。

さて、そのブログ主のhiko氏も書いているのですが
同じく音楽に対峙するにも、そして文章自体も
ここまで酷い有様があるのか?という、例として。

http://www.blunstone.net/aboutus.htm

いやね、ただの感想ですけどね、
批評するレベルにもしたくないレベルで
ただただここまで自我の歪みが文章に出てしまう
その恐ろしさというか。

どんな方なのか、御会いした事もないし、
そんな気もさらさらないですけど
ここまで歪んだ自尊心を持ってして
何かをやろう、音楽に関わろうとしている事実に
他人事ながら恐ろしささえ感じますね。

いや、凄い。

まあ、やはり、こういう世の中ですからね、
何かボタンの掛け違いというか、
ある感性を相対化してそのままに
しておく事がいいのか?という疑念はありまして、。
当然、自分もその批評や視線から自由なわけもございませんけれど、
自分なりの社会的視線を一応導入して、その先に
まあ、例えばフクシマの事故などが生まれる可能性に
0.00001%でも減じる可能性があらば、と思うわけですよ、
それだけが目的ではないですけどね、当然。
良き文化は他者性の連鎖を生むという幻想だけは今でも
持っておりまして、
それがなき社会を想像しただけで
自分は生きていけないとね、
ビートルズがいたからこそ音楽を
やっているという前提がね、ありますから。

つまり、そういう他者性は自分にとっては生存権に等しいわけでね、
その勘だけを信用して今に生きるわけですよ、。

「この文章、表現の主は何にコミットしているのか?」とね。
つまり「己の自尊心の証明」です。

色々な表現の差を見るとね、
いや、人間って難しい、とは思います。

いやはや、。

おおむね、その背景や表現を理解する手段として
「結局、何のためにそれが行われているのか?」
というバランス感覚を見るにつきる、と。
まあ、そしてその表象能力ですけど。


まあ、あの酷いブログやからむイベント今後どうなるか?
は時間が証明するでしょう、

まあ、世の中にはとんでもない事を支持する人が沢山いるという
不条理の世界ですから、
だからこそ原発だらけというのが現実ですけど
でも、希望は失ったら死ぬだけですから、。
文化を映画を音楽は生きるに同義でございますから、。

それは守るのは自分にとって自明でございます。