しかし、これからさきの日本、

この先、この顛末の行く末を見ずして死ねないという
感じでございますね。
凄いよ、世界的にも前代未聞の事故の行く末を抱えつつ
生きている当事者という、、。

「呑気な人が信じられない」という意見もございますけど
なんというか、防御機能が働いているとも思ってます。
(確かに呑気な人もおりますが)。

戦場のピアニスト」という映画が好きなんですけど
ポーランドユダヤ人ピアニストがナチスにより
ワルシャワのゲットーに閉じ込められ。、
生死も紙一重の世界、
壁によって外の世界から
隔離されたその世界で生きていて、
ある日、たまたま、外の世界を、ユダヤ人がいない
ポーランドを見て、そこで生きる人たちをみて
食べ物は溢れ変えり、街行く人たちも
至って呑気そうに歩いている、
そんな風景を見て、
ゲットー内の主人公ピアニスト、
そしてそれに同化していた観客が、
その「平和そうな風景」に違和感を覚える、
という素晴らしいシーンがありますけど、
今はそういう現実状態なんだろう、
と思ってます。

隔離されて後は死を待つのみのゲットー内の
ユダヤ人が壁1枚の外に違和感を覚えたように
「何か大きな不幸と不条理を抱えた世界」として
私達も日本の現実が立ち位置によって
違う風景として見ている、という、。
隔てた壁、見えていなければよい、
そこにあるのを知っているけど自分達は大丈夫だろう〜
(結局、その街も戦場で崩壊するのですけど)
面倒な事はナチスがやってくれているだろ〜、
という、そういう気配、呑気さ、
いつの時代、いつの場面でも
同じ事は起きるな〜と。

それにいきり立つか、
人間はそんなもんだ、と思うか、
どちらもでもありですけど、
おいらは、、、、
んと、どちらもでもないです。

その状況でも当然反抗するレジスタンスは
おりましたしね、。

ただね、その後の民主を安定を得るには
「大崩壊が前提だ」というのが歴史の必然ですから、。

それはちょっと怖いよな、と。

ゆえに、自治オルタナティブな視線が今後重要になる、と。
そう思っております。