しかしまあ

今年中の色々、
くぐり抜けられるのかしらね?おいら。
と不安になりつつ、(本業も音楽も)
最後は
「震災の被害に会った人に比べたら、、」
で落ち着く。

もはや世間ではなかったかのような
消費社会が戻っておりますが
(資本主義って、人間を近視眼的に自己中心的に
する作用を持っておりますね。これ限界だろ、と
思った今年。この資本主義って自明と思っておりますが
ただ単に「この体制を発明して一応それに試しに乗っている」
だけですからね、忘れぬ様に、。まあ、集団をまとめる別の手段が
思い付いていないのが原因ですが。)、
今回の震災津波被害の遺体処理にあたった方々への
ルポ「遺体」という著作を読むと、
もうなんというか、、何もかも無くした方々の
様子を垣間見れて、、、。
阪神の時もですが、、今回はやはり規模と範囲の大きさで
そこで起こった事実を知るたびに
「これは色々なキャパシティを超えている」と思うしかなくて。
そこに感情移入をするキャパシティも
行政的な対応のキャパシティも、、。
それを思うと全面的な感情移入は無理にしても
(潰れますね、はっきりと。この著作で伺い知れる事実の
側面を知るだけで)
無理=忘れる、という回路だけはあり得ないな、と。
これから、一段落してから現場と生き残った方々にとっては
試練が始まる、、。

今まで生活してきた基盤が津波で何もかも流された、
大事にしてきたモノ、家族、家財道具、何もかも
流され、自宅や借り家に残ったのは土台だけ、
と、その状況を生き抜いて「助かった」と思った以後、
「これからどうやって生きて行こう、、」。

それ段階の苦労は生き抜く苦労として誰でも感情移入出来ると
思うのですが、「何もかもなくした」状況で生き抜く事を
思うと、凄まじくハードだろうなあ、と、。
亡くなった方々への思いは当然、残された方々への
思いが今後は重要だよな、と、。

今年、友人を亡くしましたが
生き抜く大変さは誰もが同じだからねえ、。
資本主義で救われる(囲める)状況はもはや上部構造でしかあり得ず、
と思っております。


皆様、日々の心掛けでおそらく一番重要なのは
何かしら弱っている知人、友人に関しては距離の遠近関係なく
きっちりと対応し連絡続ける事だけですよ、
コミュニケイションは取ろう、と思う意志がないと
安易に崩壊いたします。
そして、その崩壊は最後は本当に死にまで行着きますから。